小学校へ上がる前のお子様に、「ひらがながかけてほしい」「足し算できてほしい」と願い、学校が始まる前に家庭で指導されることが多い。
あるご家庭で、小1に上がったばかりのお子様に、足し算ができてほしい、とドリルをやっているとのこと。その生徒さんは、国語のプリントをする予定だったが、足し算がやりたいようだったので、A60くらいをやらせてみたら、1枚ほぼ正解!「よくできたね」と褒めてあげたのだが、一枚するのに20分くらいかかってしまっていた。指を使わないで頭の中で一生懸命数えていたので「指で数えていいよ」とうながすも、自分のやり方から変えようとはしない。
さて、この状態を「計算ができている」と捉えていいものか?私は、「できている」とみなしていいと思っている。このまま学校の学習も掛け算割り算も、時間はかかるが正解できる状態で進んでいくことだろうと思う。
しかしながら、くもんの教材をするときはちょっと違う。これではとても上位の教材をこなしていくことはできない。
「高校教材を自学自習で」という目的を叶えるために教材は構成されているが、高校教材を自学自習できる計算力を逆算していくと、小学校の足し算20問ほどを1分程度でこなす力が要求されるとくもんでは標準完成時間という形でしめしている。
先ほどのお子様は、学校の算数はできるけど、くもんのプリントはできない状態と言える。「高校教材を自学自習で」という目的に達する可能性は低くなる。
くもんでは、(主に四則計算では)「速く正確に大量に」計算することを要求する。先ほどのお子様の場合「正確に」はできているが「速く」「大量に」が難しいケースと言える。
では「速く」「大量に」が求められる背景は何か?
「速く」できれば単位時間でこなせる量が増える、のは単純な計算。「速く」できることは「大量に」できる前提とも言える。また「大量に」学習すれば「速く」計算することもできるようになるかもしれない。正確さも補えるかもしれない。「大量に」やることは何事であっても可能性を広げる。
高校教材を自学自習できる生徒さんは、数字に強く、数の世界で自由自在に動き回れる。計算過程や問題解決に至る思考ももちろん大切だが、「高校教材を自学自習」できるようにするためには、数に強くすることが手っ取り早く効果的だ。
高校入試はなんとか80点くらい取れるようにはなって入学したが、全然授業についていけず、課題をこなすのにも何時間もかかる。要領が悪いと言われる。が、小学校の計算からやり直してみたら一年で赤チャートを自分で勉強できるまでになった。数1Aは満点が取れる。ビリギャルちゃんみたいな話だが、実はわたし自身の話。
その後の私は数学が大好きになった。それまでの私はそこそこ算数もできる子どもではあったが数学を面白いと思ったことはなかった。数の計算がスイスイできると実感できることは、自転車にスイスイ乗れるようになった時の喜びに似ている。自力である程度の遠出ができるぞ、という感覚。自動車や飛行機に乗れてる感覚までは持てなかったけれど、その後の高校生活で、数学の楽しさを感じられたことは自分にとって何よりだったと思っている。今でも数学は好きだ。
補足だが、計算力といった時、そろばんの暗算もよく比較される材料になる。数には、整数、小数、分数、無理数、、、などの実数、虚数とあり、そろばんで取り扱われるのは主に整数、小数。そろばんでは分数、無理数といった世界をイメージしづらいようだ。フラッシュ暗算を極めることと「高校教材を自学自習」が一致しない理由はその辺にありそうだ。「高校教材を自学自習で」を実現するためには、あらゆる数を自由に操れるようになりたい。
さて、ここまで書いたところで、「速く正確に大量に」の根拠は示せていないように感じる。
結局、「なぜだかわかんないけど、A60くらいだったら1分くらいでできる子が高校生になった時に困らない子になっている」という事実を根拠に据えてはダメだろうか???
養護学校に通い、足し算も引き算もままならないままの15歳、15年の間にはいろんな人が関わり算数の指導も受けてきたに違いない。だが、2桁たす2桁の足し算はどうしようもなくできていない。が、そんな生徒さんもプリントを3000枚したら、割り算まですらすらできるようになる。3000枚させるためには、「速く」できなきゃいけなかった。「大量に」こなす根性も身につけた。「正確に」できた時の喜びを感じさせなくてはならなかった。「高校教材を自学自習」には少し道のりがあるが、15年間右往左往していたことに比べると実現できる可能性を感じないだろうか?
これからも、教室で計算をさせる時には、「速く正確に大量に」できているか?を指針に据えていきたい。